向かったのは、2011年11月15日。まず、陸前高田の市街地を車で回った。南三陸町と同様、町はことごとく破壊され、津波と共に消え去っていた。
市役所、スーパーMAIYAの無残な姿
震災前の人口は、約2万4千人。リアス式海岸の美しい町だった。しかし、市全体の約半数にあたる約3400世帯の家屋が全壊し、死者・行方不明者の数は2000人にのぼった。
海岸沿いに2kmにわたって植えられていた7万本の松は、三陸有数の景勝地として有名だったが、そのもともとの起源は1667年(寛文7年)に地元も豪商が防潮林として約6千本を植えたものだった。しかし、その松林でさえ今回の津波を防ぐことはできなかった。
奇跡的に残った高さ30メートル、樹齢250年の松は、「奇跡の一本松」として知られるようになったが、塩害の影響で保存は困難になってしまった。被災者の最後の希望まで、大津波は奪っていってしまった。
大震災から8ヶ月以上が経過し、旧市街地は一面の野っ原となっていた。瓦礫は撤去されたが、その代わりにそこかしこにうず高く積まれた瓦礫の山ができ上がっている。高さは5メートル以上ある。
瓦礫の山
野っ原には雑草が生い茂り、すすきが風に揺れている。海に近いエリアは80cm以上も地盤が沈下し、水没してしまっている。地盤沈下はまだ続いていて、復興どころの話ではない。
被災した小学校 地盤沈下によりできた水溜り
しかし、このまま立ち止まっているわけにはいかない。自元の若手経営者たちが立ち上がり、2011年9月に「なつかしい未来創造株式会社」というコミュニティ・カンパニーを立ち上げた。
そのメインの事業が、コンテナを商店として活用するコンテナ商店街である。リーダーのひとりである橋勝商店の橋詰真司社長、橋詰智早子専務たちからお話を伺ったが、その思いは「"にぎわい地"をつくりたい!」という一点にある。
単に買いものの不便さを解消するというだけでなく、みんなが自然と集まり、明るい声や笑い声が聞こえ、子供たちが元気に走り回っているような、人でにぎわう場所をつくることが、コンテナ商店街の最大の使命である。
コンテナ商店街の初期スケッチ
仮設住宅では鬱病に罹る人が増え、孤独死や自殺者も出ている。大震災の余波は今でも地元の人々を苦しめている。それを乗り越えるためには、人のぬくもりを感じられる場を早期につくらなければならないという切実な思いが、このプロジェクトの背景にある。
第1期の計画では、約1600平米の敷地に、約20基のコンテナを設置し、商店や飲食店を誘致する。フードコートや公園なども併設する。将来的には、第2期用としてより広いスペースが用意されている。コンテナ商店街から町興しにつなげたいという思いをひしひしと感じる。
コンテナ商店街の予定スペース
第1回目の訪問から約1ヶ月半が経過し、クリスマス直前の12月23日に再度訪問した。ローランド・ベルガーが寄贈した8基のコンテナは現地に到着していた。
しかし、当初11月末に予定されていた開業は、ずれ込んでいた。8基のコンテナも組み立てられずに、敷地内に置かれたままだ。
到着した8基のコンテナ
橋詰さんに聞くと、インフラの整備に予想以上に手間取っているという。荒地だった土地の整地、電気工事に時間がかかり、今は水道工事が難問だと言う。
もともと敷地内には水道管が埋設されておらず、近所の個人向けの配管を利用させてもらうしかない。しかし、そこには今は人が住んでおらず、その該当者を探し、交渉するのも一苦労。その後、役所の認可をもらわなければならない。
さらには、被災地では建築・土木の人手が足らず、水道工事の業者を見つけられない。隣町まで出向いて、業者を探していると言う。こんな状況では、何をするにしても、平常時の2倍も3倍も時間を要してしまう。これが被災地の復興の現実である。
人手不足はコンテナ商店街のみならず、被災地復興の大きな足かせとなっている。宮城県ではハローワークを通じた建設業の求人数は2011年10月時点で6000人と、震災前の4倍の水準に達した。しかし、土木・建築の仕事を望む求職者は、求人数の4分の1にすぎない。宮城県が入札を実施した工事の2割が、応札企業が現れず宙に浮いていると言う。
それでも、橋詰さんは2012年1月中にはなんとしてでもオープンさせたいと意気込む。「早く形にして見せることが何よりも大切だから」と、東奔西走している。
コンテナ商店街の隣接地には、中小企業基盤整備機構が支援する仮設商店が、2012年6月を目途に8棟建つことが決まった。また、コンテナ商店街のスペースでは、橋詰さんが実行委員長を務めている「けせん朝市」が、既に毎週末開かれている。地元のおばあちゃんたちが野菜や果物などを販売する、200年続く陸前高田の名物のひとつである。
コンテナ商店街のスペースで行なわれている朝市
コンテナ商店街に朝市、そして中小機構の仮設商店と、人が集まり、楽しめるだけの魅力的な商業集積の計画が、ほぼ固まりつつある。いよいよ「プラン」を「実行」に結びつけるステージに入っている。
しかし、先ほど述べた「人手不足」のように、被災地ならではの障害がこれからも発生するだろう。けっして一筋縄のように、スムーズには事は運ばない。
だからこそ、私たちは継続的な応援をする必要がある。被災地の人々は自分たちの足で立ち上がろうとしている。しかし、自元の人たちの熱意と努力だけでは、突破できないハードルも間違いなく出てくる。だからこそ、私たちひとり一人が、なにができるかを考え、できることをこれからもしていかなければならない。
陸前高田から盛岡に抜ける道の途中に、小さな保育園(横田保育園)があった。その木張りの外壁には横断幕が掲げられていた。たくさんの園児たちの手形ともに、そこには「げんきになります。心からありがとう」と書かれてあった。
横田保育園の横断幕
被災地に対する継続的なサポート。それは同じ島国に住む同胞としての責務である。